リレーエッセイ     町民の数だけ心に残る本がある。

読むことで自分の世界を拡げる読書。感動した本との出会い、人に薦めたくなる一冊、
図書館の利用など、本の話を語ってタスキをつなぎます。


第二回

芥川龍之介全集 第三巻 (昭和出版)

北村 重信 (図書館協議会委員 牛牧)

 

私が読書に目覚めたのは、小学校6年生の時。親類先に下宿していた担任の先生からいただいた「芥川龍之介全集」の一冊でした。日本が戦後直後で、本など買えなかった時代。宝物のように大切にして、繰り返し読んだことを、七十年過ぎた今も鮮明に覚えています。

 心に残ったのは「杜子春」と「蜘蛛の糸」の短編でした。「杜子春」の作品の舞台は、中国・唐の都、洛陽の西の門の下。杜子春は大金持ちの息子でしたが、ぜいたくざんまいで無一文になりました。空腹で寝る所もなく、ぼんやり空を眺めていた時、一人の老人が現れます。

 同情した老人は「今この夕日の中に映っている自分の頭に当たる場所を、夜中に掘ってみろ」と告げます。その通りにした杜子春は一夜にして、都一の大金持ちになりました。以前にも増してぜいたくな暮らしをし、また無一文になるのです。

 杜子春は老人の同じお告げで、再び大金持ちになったが没落。金や地位があればお世辞を言ってすり寄り、なくなれば見向きもしない人間の薄情さに気付くのです。いつの時代もこの風潮は変わりません。

洛陽の西の門の下で三度、老人と出会った杜子春は、この老人を〝仙人〟と見抜き「もうお金はいらないから、弟子にしてください」と頼みます。二人は一本の竹杖に乗って天空の峨眉山へ。仙人にるための修行で見たのは、地獄で馬の姿になって鬼たちに打ちのめされる亡き父母の悲惨な光景でした。

 杜子春は「どんな場面でも、声を出したら仙人にはなれないぞ」という老人の教えを守って固く目を閉じ、じっと耐えていました。そ時耳に響いたのは「お前が幸せになるなら、いつまでも黙っておいで」。絶え絶えのか細い母の声でした。あんな姿になっても、お母さんは息子のことを心配していてくれる―。杜子春はやせ馬の姿になった母の元に掛け寄り、その首を抱いてはらはら涙を流しながら「お母さあん」と叫びました。…気が付くと、夕日を浴びた洛陽の門の下に、一人ぽつんと立っていました。

 私はこの作品を読んで、子供心にも人間としての生き方を教えられました。▽高望みをせず、生活は質素に▽親には孝行―を胸に刻み、長い人生行路を歩んできたつもりです。

 遠い少年の日、恩師からいただいた一冊の本が、私の思想形成の原点となり、読書好きになりました。我が家の本棚には、セピア色をした宝物の芥川作品が、大切に収められています。